上野塾頭の教育論 1

上野

21世紀の日本は、確実に自己責任型の社会になる。そうした社会では、自己の価値観や正義感を確立する必要がある。戦後、日本人はそれらを全て他の者に預けて、ひたすら経済を追求してきた。その代償は教育においてあまりにも大きい。親は子供に示す価値観を持たず、安易に流れ、「子供の自主性に任す」という美麗の放任主義に走り、ついには放任から放棄へと移りつつある社会現象がニュースとなり始めた。

子供の自主性とは如何に育まれるか。それは、多くの価値観とぶつかり、悩み、反発し、比較検討することから自然と自らの価値観を形成し、その過程を通して自主性を育てるのである。我々大人は、その責任として、恐れず、侮らず、見くびらず、子供たちに対して自らの価値観をぶつけるべきである。たとえ、それが我々にとって苦しい選択であっても。

そうした場合に、絶対避けなければならないことがある。それは、反論を許さない抽象的な話に終始することである。例えば、いじめやそれに関する自殺が問題となった時に、有識者会議等で「命の大切さを教えよう」「子供の立場に立った教育をしよう」などという意見が出されたが、どれも反論の余地のない、もっともな意見ゆえに誰も実行できず、結局何も変えられないままである。また、「何故勉強しなければならないのか」という問いに対して、「将来のため」「自分のため」ではまったく説得力を持たない。まだ、「良い学校に行って、良い会社に入って、安定した生活をするため」のほうが、その是非は別として、子供にとっては反発、反論の余地があるだけ有益な回答である。

何故勉強しなければならないか。答えは2つ。

1つは、学力を向上させるためである。学力と知識は別物だ。学力とは「まなぶ力」のことであり、自らにとって必要な知識、技術、技能を自らの手で学ぶことのできる力を言う。学力がなければ、自らを向上、進歩させることは不可能である。勉強の目的は、第一義的に、この学力の向上にあることを理解すべきである。

もう1つは、人格(精神力)を向上させるためである。オウム事件以降、勉強に対する風当たりが一段と強まったが、勉強のし過ぎで性格が曲がること、人の道に外れるような行為に走ることは決してない。ただし、条件が1つ。勉強を好きにならないことである。好きなことを、例えばゲームを何時間でも続けてできるのは当たり前で、そのことで精神力が身に付くなどということはない。嫌いだけれども、必要なので「嫌々」1日2時間の学習をすることに意味がある。そこから、忍耐力や創造力、工夫が生まれる。勉強に限らず、スポーツでも芸術でも、およそ「―力」と名のつく能力は、ある程度の負荷をかけないと伸びないのである。そして同時に、自分の能力を向上できるのは自分自身でしかないことを知ってほしい。

つまり、勉強の目的は、いわゆる「生きる力」を向上させることに他ならない。子供たちに必要なのは、学力であり集中力であり、忍耐力であり、創造力であり…「力」=パワーなのだ。知識、学歴には文字通りパワーはない。そして、子供たちにとって最も必要な「力」、それは努力「つとめる(がんばる)力」である。

では、それらの「力」は何のために必要か。言うまでもない、幸せに生きるためである。ここでも、個々の価値観が問われることになる。自分は、何をもって幸せと感じるか。大いなる問いである。


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